むぅちゃんの日記

ゆるゆるとオタ活してるむらかみの日記です

オタクを降りました

 オタクを降りるって表現が合ってるのか分からないけど、一年半と少しでオタクを降りました。現場にはもうあれから1年間以上行ってないし、特に新しいオタクの先はまだ見つけていません。
 結局、あのとき必死に現場に入っていた自分が一番頑張れていたかななんてすでに思い始めてしまってる。1年以上前にはちゃんとできていたオタクがいまはもうできなくなってしまってるし、未練がましくフォローしてた廃油たちの何人かは未だにツイッターで見てるけど通知は切った。何人かはフォローも外して、リプは当時からしない派だったけど、リツイートもいいねもせずにこっそりと時々写真を見てるだけ。当時、もちろん何か影響を与えられると思ってたわけじゃないけど、当時と同じように写真は上がってて、でも現場に行かなくなっただけで公演期間も稽古期間も何もわからなくなってしまって不思議だった。前はツイッターで把握できていると思っていたけれど、ツイッターを見てるだけじゃ本当は何もできていない。
 実は、オタクをするためにオタクをやめていた。もとのジャンルは二次元で、現場なんて本当になくて、漫画を集めて同人を見てるだけみたいなものだったのが、舞台からあるジャンルにはまって、そこで前まで追いかけてた二次元のオタクを全部やめた。新刊も買わなくなったし、アニメを見るのもやめた。お金は全部チケットと洋服と遠征の費用にかわって、時間は現場に通うのとDVDをひたすら見るために使った。前のジャンルはオタクをやめたというよりも、気づいたらやめていた。それぐらいには舞台にのめり込んでいたつもりだったし、舞台に行かなくなっただけで何もしなくなった。
 オタクは降りてしまったけれど相変わらず当時のDVDは手元にあるしブロマイドも綺麗に残っている。降りたんだから、手放せばいいのに手放すことはできない。でも、オタクをしていたときみたいに何度もDVDを見ることはないし、ブロマイドのアルバムをめくることもない。
 そればかりか、無責任にもあの舞台はこれからも続いてほしいなと思ってるし、もし自分に子供ができたら観劇に耐えうる年齢になったら連れていきたいとすら思っている。あの舞台じゃなくてもいいけど、でもあの舞台がいい。
 多分、私に子供が産まれて、10歳ぐらいになったときにはあの舞台は終わってしまっているだろう。.5舞台の寿命は短い。いまはそこそこはなんとかなっているが、降りて1年ちょっとの間に公演数は激減した。あのときの自分なら、間違い無く全通できるって言い切っているぐらいには。
 まだ新しいオタクにはなれない。舞台のオタクになることはもうない気がする。舞台のオタクでいるためには十分に戦えないといけないし、好きでいて、オタクでいつづけなくちゃいけない。私はいまは応援しているとはとても言えない。ツイッターのフォロワーに数えることはできるだけの、何十万分の1なだけで、今はもう彼らの給料の1円たりとも払っていないから。
 別に新しいオタクになりたいとも思わない。何かを好きでい続けなくちゃいけない、ただコンテンツを消費し続けるだけの者ではないから。ただ、オタクやめてしまったのは、それよりもいいかどうかは分からない。
 ごめんなさい、「いつまでも」応援できなくて。あのときも、「いつまでも応援しています」なんて書けなくてごめんなさい。
 オタクには戻れないけど、でももしかしたらまたいつか彼らの給料の1円ぐらいは私のお財布から出るようになるかもしれない。

特定のオタクの悪口を言います

 特定のオタクの悪口を言います。
 この話は特定の誰かがいる話で、概念的な話でもなく、一般論でもありません。ただただ、私の知り合いの特定のオタクの悪口を書くもので、そんなのをこうやって一般に公開する必要はないんだけれど書きたいから書きます。
 外国の小説の「M氏に捧ぐ」みたいな、あんな感じのものなので毛ほどの興味もない人は読まないでください。
 オタクの見苦しい、ただの悪口です。

 ねえ、元気にしてますか。っていっても、私に対してのラインの返信がもらえていないだけで、ツイッターでは元気そうにしているから元気なんだろうね。あなたの電話番号も、住所も何もかも知っているから、ラインがもしこのまま無視されてブロックされ続けても別に連絡は取れるんだけど。でもついこの間までお金借りていて、今も借りっぱなしのものがある人がラインを無視するとはいい度胸、とは思うんだけど。
 でもあなたはそういう人だから。仕方ないなんて、口が裂けても言わないけど。私のことなんてどうでもいいみたいだから、そういうもんなんだろうね。

  また推し変したみたいだけど、そういう軽薄なところ大っ嫌い。半年ぐらいしか熱が続かないくせに、そのときには「推し!」って言って、誰よりも一番推しているみたいな顔するところとか、あまりにも「熱に浮かされた自分」が好きすぎるでしょ。
 情熱的に何かを好きでいること、は盲目になれるから楽しいよね。でもだからといってそんな自己満足のための情熱でマウント取られても困るんだけど。それともあなたのそれは、誰かを好きでいなくちゃいけないっていう強迫観念なのか。だとしたら可哀想でもあるけど、でもマウント取られるのは不愉快だからやめてもらっていいかな。
 その時の推しにお金をたくさんつかってるって主張する割に、そんなに出してないよね。忙しくてそれどころじゃないのかもしれないけど、それならそれで、どうしてそんなに元気にマウントが取れるのか分からないや。
 今の推しのことも、どうせ半年ぐらいしか好きじゃないんでしょ。前の推しくんよりも接触が多くて覚えてもらいやすいから、推し変したのかな? 認知あると舞い上がるタイプ? そんな簡単に推し変できる程度しか好きじゃないくせに、毎日大好きアピール大変そうだね。
 軽薄な好きのくせに、推しからの見返りを求めているのは一種滑稽だよね。推しも、そんなに簡単に推し変する人のことを大事にしたいとは思わないし、何かを返そうとは思えないんじゃないかな。だからあなたがそのままでいる限り、誰も推しはあなたと何か関係を築こうとはしないと思うけど。
 オタクとしては、推しからの見返りを求めること自体が間違いなんだけど。
 今度はもっと接触があって、オタクを求めてくれるような現場に行けばその欲求も満たされるかもしれないね。せいぜい頑張ってね。

憧れのはなし

 小さいときは色々なものになってみたかった。パティシエとか政治家とかパイロットとか医者とか、分かりやすく身の回りで仕事が見えて、かつかっこいいなと思える職業には一度は憧れた。

 そのなかには、アイドルも確かにあった。テレビとか舞台とかにでる役者になりたいときもあった。多分、ちやほやされたかった。周りの「憧れ」になってキラキラして「好き」って言ってもらえる、そんな存在になりたかった。

 いや多分、もしも自分が理想の姿になれるなら、今だってアイドルとか役者とかになりたいんだと思う。なれないとすぐに否定してしまうぐらいに知恵がついてしまっただけで。

 今でも強烈な憧れがあることは自覚してあるけれど。アイドルとか役者とか、それをやっていて好きってファンから思ってもらってる人って本当にすごいと思う。生きてるだけで、他の誰かが生きていることを楽しいと思える職業ってそうそうない。そんな何かになりたいなんて、あまりにも稚拙な思いからは未だに抜け出せない。

 役者として舞台に立っている人たちは、若い。いくつも年が離れていない。私が今見ている舞台では、最年少の役者はもう年下だ。何になりたいとか、どうしたらそれになれるのか、私はまだ何も見つけられていないのに、彼らはもう自分の夢というものを掴んでいる。眩しくて、輝いて見えて、そして単純にたまらなく羨ましいと思う。

 そんな気持ちもないまぜになって、私はいま舞台俳優を応援している。ただそこにいるだけで、格好良くてきらきらした存在の彼らに、そのままの憧れでいて欲しいという身勝手な理想を押し付けながら。私は舞台を見に行く。

「劇場に観に来て下さい」

 とある劇の千秋楽でライブビューイングの会場に向けて座長さんがおっしゃったらしい言葉。

 これを劇場で聞いた人はどんな気持ちだったのか。

 

 劇場には見に行かない、遠征はもっての他、たまにライブビューイングには行ったりする、生で一度もみたことがないのにツイッターのbio欄に「推し♥♥」とか書いたりして、劇場でお待ちしてますという廃油のツイートに「行けないけど応援してます」と平然とリプを送る、それが茶の間。

 え、っていうか行きたいとかいいながら先行ひとつしか申し込んでなくなかった? とか、色々思わされる茶の間。

 「予定が合わないから今回行かない……」ってイベントではなく舞台にも言ってるけど、そもそも舞台すら片手ほども行ってるのを見かけない茶の間。

 

 色々と話題になった都内・地方住み論争が絡んできたりとかするわけですが、じゃあトナイ住みに茶の間がいないかと言えばそんなことはない。地方の人でも来るひとはくる。

 自分のことくそ茶の間だと思っていたけれど、今回のこの発言に端を発した第n次茶の間論争をみて開いた口が塞がらなかった。

 こんな記事を書きながら、私がほぼ茶の間であることには変わりはないんだけれど。一応どの辺りが茶の間かと言えば、某公演であっても全通はできない程度入れるところだけなので頑張って入れても半分、気になるな、または好きだなと思っている俳優の舞台も一公演は行くけれど複数公演はなかなか入れない、ぐらい。DVDはなるべく買うし、グッズも欲しければ買う。幸いまだ円盤を積む類いのチケット取りには参加したことがない。つくずく自分の弱さに悲しくなる。強いオタクになりたい。

 少なくとも、廃油に「劇場に来てくれ」と言われたその舞台期間中に在宅でいたくないとは思う。けど、実際見たい舞台でも上演回数にたいして、入れる公演数の方が少ないんだよね。

 劇場でカーテンコールで「まだチケットのご用意あります」って聞く。予定一杯に舞台に通っているときはどうしようって思うし、正直そんなに売れてないのかな? って疑ってしまう。本当に、チケット売れないんだろうなぁ……。オタクは席を埋めるために、知り合いに声をかけて、チケ代払ってでも観てもらったりとか、そんな話は珍しくない。それと比べてこの、タイトルにもした話は何なんだろうなって思う。

 行けないって言っている人こそ声が大きい。行けないに色々理由はつけているけれど、結局行かない人は何をしたって行かないのだ。なら最初からさも行くつもりがあるように、行きたいですなんて言わないで欲しい。

 劇場へ足を伸ばしてきて欲しい。しかし結局、その言葉を言われている彼女たちの行動の先には劇場へ行くなんて選択肢ははなからないようなものだ。次元が違うようなもので。そして、通っている人こそがその言葉に心を痛める。

 廃油の口から劇場にきて欲しい、なんて言葉を言わせないようにするには、結局今行っている人が動かないことにはどうしようもないのだろうと改めて思わされた。

 

俳優に書く手紙の話

 いつの流行だよと思いつつ。
 新参者で推しがまだいなくても、手紙は書くのでその手紙について。
 いいなと思った人にはなるべく手紙を書きたいなと思っています。
 といっても今まで書いた手紙の数はまだまだ数えられるぐらいしかないんだけどね……。そのときに他の方のブログの書き方を参考にしつつ、結局自分の手紙なのでなに書けばいいかなんてわからなかったので、誰かにとってその程度の参考になればいいなって思って書くことにしました。


1.便箋・封筒

 まずこれはなるべくいいやつを買います。
 レターパッドは~20枚入りぐらいで、それに合わせた封筒と合計で1300円ぐらいするやつ。それ以上の値段してババくさくないやつって、大きめの文房具屋を探してもなかなか見つからなかったので、一応コンスタントに手に入る中で一番よさそうなやつを買っています。で、違う俳優さんに同じ柄で出したくなかったから、何セットかまとめて買ったりとかして、私は紙にいくらお金をかけるのだろうって少し冷静になりかけた。
 でも紙って、質が誰の目にも見て明らかだし……。箔押しとか、透かしとか、あとなんていうのか知らないけど模様が立体的になっていたりするやつにします。推しに何十通も出すようになったら、またその時は考えます。

 そういえばレターパッドに入っているやつ全部柄違いのやつとか、そういうのいいかもしれない。一度きりしか出さないかもな~って人に出すのには。ただその場合複数枚に渡ると柄が変わってしまうので、1枚に収めることが必要かも。

 何回か出す予定がある人には、同じ便箋と封筒使い続けます。同じものもらったら同一人物から送られたものだって思ってもらえないかなと思って。公演中毎日とか出すことになったら少し気持ち悪い気もしなくもないけど。
 どうでもいいけど、俳優さんによっては手紙の差出人のところ隠して公演後とかに「受け取りましたよ」って写真出してるけど、ああいうのに自分の並んでたらちょっと怖いなって思ってる。って言いながら多分喜ぶんだろうけど……。まだ並べるタイプの俳優さんに出したことありません。

 便箋に話を戻すと、全般にそうかもしれないけれど読みやすいためか行間がめちゃくちゃ広く設定されていることも多いので、なるべく行がない白背景に模様が入っているものを選ぶようにしています。一緒についてくる透かして使う下敷き(名前を知らない)の罫線には従わないで、別に自分で持っているもっと行が詰まったやつ使ってる。
 文字がぎゅっと並んでいると読みづらいかもしれないけれど、3枚とかになったほうが迷惑かなぁと勝手に思うので1~2枚におさまるようにそんなことしてます。
 この人なら枚数が多くても喜んで読んでくれそう、って人には気にせずに3枚使っちゃう(笑)
 封筒は表に「俳優のフルネーム+様」それから公演によっては役名。裏面には、住所と名前。身元がはっきりしているほうが読んでもらいやすいかなと思って。

 

2.書き出し

 まず一番上の行に「俳優のフルネーム+さま」
 これは大体一緒かなって。そういえば封筒には「様」って漢字で書くけれど、最初の宛名は「さま」って平仮名にしてる。今まで気が付いてなかった……。理由は特にありません。
 で、初めて手紙を出すときには「はじめまして、○○です」って自分の名前をフルネームで入れます。2回目以降は「こんにちは」「こんばんは」かな。久しぶりです、とかは入れない。覚えてないだろうし、覚えられてなかったら悲しいから!

 それから公演で渡すので、「△△何公演目おつかれさまでした」ってところから入る。
 最後に日付とか入れるっていうのもアリなんだろうけど、何公演目って言ってもいつ書かれたものか伝わるかなと思うのでこういう書き方に。その日のうちに読まないでまとめて読んだりするときにいつ書かれたものか分かったほうがいいかなと思って入れてます。

 あ、ここまで本文宛名ともにすべて黒ペンです。手紙と言ったら万年筆と思って使うことも多いけれど、紙によってはにじんで格好悪くなるので、ボールペンのほうがいいかなと思い始めた。

 本文は相手がたとえ年下であろうと必ず丁寧語。むしろ尊敬語も使います。丁寧すぎるほうが、迂闊なこと書いてしまって失礼になるってことがないかなと思うので。でも、もし推しができて年がそんなに離れていなかったらきっとタメ口で書きます。多分。

 

3.内容

 公演の感想がほとんど。

 「あのセリフでこう思った」「こういうところが楽しかった」みたいなことをひたすらと。気が付いたらどこが好きとしか書いてなかったりとかする。頭が悪い。
 基本的に楽しい時間を過ごすためにお金を払っているから、こんなにも楽しかったってことが伝わればいいなって思ってそこはちゃんと書くようにしてます。

 あと、稽古とか私が行くまでの公演の様子とかをツイートしてたらそこの話とか。「○○って言っていたのがすごい気になっていました」みたいな。

 ファンレターに限らず手紙を書くのが死ぬほど苦手なので、これ読んで嬉しいかな?って素直に疑問に思う。でも出す。出せる限り出す。

 毎日連続して出す、とかやったことがないので基本公演の感想で埋まります。1枚、多くて2枚しか書かないしね。

 

4.終わり

 次にも同公演に入る予定があったら「また楽しみにしています」、他の舞台とかを見る予定があったら「△月の○○も楽しみにしています」って書きます。
 二つとも予定がなかったら、読んでくれてありがとう~みたいな内容とか、楽しい公演をありがとう~とかそんなこと書いて終わります。

 ファンレター嬉しいってツイッターとかで言ってくれている人だったら、「次回公演も頑張ってください。また手紙書きます」とか書いちゃう。何のアピールだよって思うけど、あなたのこと応援している人ここにいますよ!って知ってもらいたくて。

 どなたが書かれていたか忘れちゃったんですけど、『ちゃんとお金を落とせているわけではない俳優さんに手紙を出すときには「応援してる」って書かないようにしている』(超訳)みたいな話があって、それはそうだなと思ったので、私も少なくとも次の予定がなかったら応援しているとか頑張ってとか書かないように気を付けて締めます。

 頑張っても応援しているも便利な言葉だからつい使ってしまいがちだけど、応援するってことはちゃんとお金を出すってことだから、茶の間の時には直接伝わる言葉では言わないようにしています。

 それと気を付けているのは、次行けませんは言いません。俳優に対する行けませんリプとかめちゃくちゃ話題になりましたけど、あれも不愉快だろうからやりません。本文中にも「行けませんでした」とかは書きません。他公演に複数入っていても千秋楽とかでチケット取れなかった場合は書いてもいいかなと個人的には思いますが、私は書きません。チケット取れなかったこと俳優さんに言っても仕方ないですし。

 さっきからめちゃくちゃ脱線していますが、チケット取れなくてライブビューイングで見た場合それをわざわざ書く必要があるのかってことを最近ちょっと考えてたり。わざわざ言わなくていいけれど、でも「見ました」だけ聞くと会場に実際にいたと誤解されかねないなと。まあ1ファンの手紙をそこまで気にしていないかなとも思うので、そのあたりは当たり障りなく明言はしなくてもライビュでみたようにとれるように書くのがいいかなとは思っています。

 

5.その他

 下書きはがっつりします。パソコンとかスマホに打って、直して、最終的に書く文章まで決定してから便箋にペン書き。誤字脱字をやらかしたら新しい便箋に一から書き直します。

 封筒にきっちりとした封はしません。なまじちょっといい封筒を使っているので合うシールとか手持ちにないし探すの大変だしであきらめて、一部分だけ軽くのり付けします。引っ張ればはがれるから頑張ってはがして欲しい。
 洋風のやつだと封筒にセットのシールが入っているのでそういうの買ったほうがいいかもしれない。とりあえずは軽く糊付けで乗り切っています。

 宛名デコったりとかはセンスがないのでしません。単純にすごいなぁって思う。まず表に書く宛名の文字が汚いのでそれが綺麗に書けたらいいなとはとっても思います。

 

 手紙書くの楽しんではいるんですけど苦手なので、本当はもっとちゃんと読んで楽しいものを出したい。一文感想がずらずら並んでいる手紙を脱却したい。
 多分そのうちよくなるのでは、と思っているんですけど中学生の時に手紙交換とかしまくっていたはずなのにこれなので半ばあきらめています。少し読みづらいと思うけれど、1枚なので頑張って読んで欲しいな。

 

 また書き方変わったりとかしたら追記とかするかもです。まだ自分で様式として確立できるほど書いていないですけれど、とりあえずはこういう形で。

 一回読んだ手紙は無理して取っておかないでどんどん捨てていいので。でもできれば一度は読んで欲しいなって、願望にあふれまくったような手紙を出しています。正直「自分にファンレターくれる人がこんなにたくさんいる!」って気持ちになってもらえるってだけの存在でもいいような気がする。懲りない限り手紙は書きます。

『言ノ葉ノ花』を読んで

(※若干のネタバレを含みます。)

 

『言ノ葉ノ花』(ディアプラス文庫)

著:砂原糖子

言ノ葉ノ花 (ディアプラス文庫)

言ノ葉ノ花 (ディアプラス文庫)

 

 私の一番好きな商業BL小説の話をしようと思う。

 

砂原先生のこの作品を知ったのは、ドラマCDが先だった。
このドラマCDで主役を演じるのは、某声優ラジオの有名コンビだった。某ラジオから入って二人のことが好きになったために、出演作を調べていたら見つけたのがこの作品だった。
見つけたその日のうちに小説を買って、読んだ後しばらく何もできないぐらいの衝撃だった。
実は商業BL小説を読んだのはこれが初めてで、それから全部で30~40冊ぐらいは読んだが、いまだにこれが一番好きだ。初めて読んだあの日からまだ1年もたっていないが、すでに何度も読み返した。

砂原先生についてはこの作品がきっかけで作者買いするようになった。まだ半分ぐらいしかそろっていないが、砂原先生の書かれる切ない系の話が好きだ。主人公たちが立ち向かう問題を、根底からひっくり返してはねっかえして幸せになるのではなく、全部包み込んで抱え込んでそのうえで二人が幸せになっていくような。幸せでたまらないのに、どこかで身を切られるような痛みが忘れらない読了感が好きだ。

 

『言ノ葉ノ花』あらすじ

普通に会社勤めをしながらそこそこ成功している人生を送っていた余村は、とある日から人が心から発する「本心の声」が聞こえるようになる。そのことから、余村の人生は変わってしまう。
人の心から発せられる「声」を聞いているうちに人間不信となった余村は、結婚するはずだった彼女と別れ、会社も辞めてしまった。生きるため以外の目的もなく家電量販店で契約社員として働く余村は、ある日から職場で働く長谷部から自分に好意的な「声」が発せられていることに気が付く。
「声」から今まで傷つけられることしかなかった余村は、本心を覗き見ることに罪悪感を抱きながらも、長谷部の「声」に安らぎを覚えるようになる。そうして長谷部の「声」に応えるように、余村もまた長谷部に惹かれるようになっていくが――。

 

言の葉の花のこの文庫本は前・後編のように二編からなっている。
砂原先生はあとがきで、二本目のほうこそが書きたかったところであると明かしている。
一本目も二本目も、本当にずっと心が痛くて仕方がなかった。

余村が心の声を聞いて傷つくのは、ずっと人のことを信じたかったから。
彼は心の声が聞こえる前は、おおよそ純粋に他人のことを信じていた。多少は見下していたとしても、慕っているものに関してはその言葉をきちんと信じていたのだ。
それが、彼女からの本心の告白、周りの人間の思っていることによってことごとく崩されていく。
だから彼は長谷部に対してもあまりにも脆い。
心の声が聞こえるようになってから、ずっと信じたくても信じられないできた人を、もしかしたら信じられるかもしれないと長谷部を見て思ってしまう。長谷部のことは信じたい。でも、信じて裏切られるのは怖い。その余村の葛藤は、心の声が聞こえなければなかったものだ。でも、読んでいると余村の感情がするするとわかりやすく流れ込んでくるような気がする。

感情移入できる、というのは恋愛小説(商業BLも広くくくればこれにカテゴライズされると思っている)において重要な要素だと思っている。
余村の感情、葛藤が丁寧に描写されていて、ずっと余村と一緒に長谷部に心を揺さぶられ続けた。
信じたい、でも信じられない、というのは人の心の声が聞こえなくても、きっと誰しも当たり前に抱く恐怖で、それが大きくなるということが怖いことであるというのは、突拍子もない話ではない。
だからこそ、余村の気持ちがわかる。
そして、余村が読み取った「声」からわかる長谷部の気持ちも、どれだけ余村を思っていることか分かる。
どうして幸せになれないのだろう。どうか幸せになってほしい。そんな祈る気持ちで読んでいた。

好きな人と、ただ好きだと想いあえば幸せになれるというわけではない。
「好きです」と告白して相手がそれにうなずいたら暗転して終了、なんて実際の世界ではありえない。物語として一部分切り取ることができても、でも本当だったらその人の人生はそれからも続いていく。少女漫画や月9ドラマのような山あり谷ありのロマンチックでドラマチックな物語の末にくっついても、その1年後には分かれているかもしれない。
実際どうなるかなんてなってみるまでわからない。
そんな、「物語の先」が描かれているように思う。

 

簡単にハッピーエンドでなんて終わらない。
いつまでもどこまでも幸せいっぱいな二人を見ていたい、なんて人にはつらいかもしれない。
でも読み終わると、きっと確かにこの二人はこれからもずっと幸せになるために頑張り続けてくれそうだと、そんな気持ちになれる素敵な話だ。

楽しいこと

最初はハマりたてのとある作品が舞台になっているから一緒に行かないかと友達に誘われたのが始まりだった。

こんなこと書く必要はないが、そもそもなんとなく2次元のものを3次元にするのが苦手だった。映画化舞台化問わず。実写化されるよって聞くと、「なんでやるの???」と半ギレで、できるだけその話題を避けてきた。

それなのに舞台に行こうと思ったのは、その作品がそもそもあまり人間っぽくなかったからだ。

二次創作というものがある。

私は作品にハマると大体支部で作品名で検索をかけて原作の供給を待っている間二次創作で食いつなぐ。さて、その二次創作だが、そもそもの原作が人間っぽく綺麗であればあるほど、二次創作界隈においても「原作に似て綺麗」であることが求められがちだと思う。逆に元がデフォルメがかっていたりすると、むしろ擬人化とさえ言いたくなるほどまで見た目の違うキャラクター達を二次創作よくみかけるようになる。その界隈では原作寄せは正解とはならない。

私は.5舞台というものは一種の二次創作だと思っている。だから多少の解釈違いとかも、目をつぶれる範囲ではそういうものだなと思って普通に楽しむし、無理なら離れるしかないだろう。(まあ巷に溢れている二次創作と違って、話の内容に責任を持ってもらくはあるが)

だからこそ、原作が綺麗で人間っぽいものでは、ビジュアルが原作と少しでも違うことが気になって仕方なかった。当たり前だが、俳優はコスプレイヤーではないので、見た目だけで言ったら趣味でやっているコスプレイヤーのほうが勝ることがあるだろう。そのクオリティで心の底から楽しめるのかわからなかったから、見たいとは一切思っていなかった。

それが、今回は原作が人間っぽくなかった。だから、二次創作としての舞台もなんでもありだな、という認識があったのだ。キービジュみても、「こんな感じになるのか」としか思わなかったし(しかしハマりたてなこともあって誰が誰だかわからなくて名前を調べながら顔と一致させた)、これならいけると思った。

前置きは長くなったが、そういうことで友達ととりあえず一つずつ先行に申し込んで、一つ落ちたので最初は一公演のみ行く予定だったのだ。

 

行ってみての感想は一切予想外だった。

「楽しめたらいいな」って思って行ったはずなのに、終わった後にはあまりの興奮で心拍数がなかなか下がらなかった。アンコールで手を叩いているときには、正直拍手よりも心音の音が大きいように感じた。普段運動していない心臓が変な音を立てていた。

人間ってすごい、そんな阿保みたいな気持ちでいっぱいだった。

舞台だからもちろんCGなんて存在しない。全部本当の、生身の人間がやっていることだった。それを思うと鳥肌が立った。私が見ているのは人間じゃあなくて、本当はアニメーションで作られているんじゃあないかとかそんなことまで思った。

ドラマとかでもCGなしのすごいアクションをみることはある。でもそれと違うのは、舞台は2時間1本で1発勝負だ。何公演もやるものはやるし、そういう意味では1発勝負ではないのかもしれないけれど、でも少なくとも、今観ている観客の前で演技をする回というのは一回限りで、もうどうしようもなく取り返せない。そんなことを、観ながらずっと考えていた。演者さんのほうがもっと、私よりもずっと、そのことは感じているのではないだろうかとも思うと、うっかり泣いてしまいそうなぐらい心が動かされた。

とってもとっても格好良くて、それを見ている間は心の底から楽しかった。ただ本当に楽しいだけのキラキラを集めた空間に2時間いられたんだって、劇場を出たときに思った。

見ているときにいかに楽しかったかを思い出すだけで、本当に楽しかった。嬉しいとか楽しいとか、ただそれだけの感情だけを持てたのは久しぶりのことだと思った。まだまだ全然生きていないけれど、もう最近そんな風に思えることは全然なかったのに、ただただ純粋に楽しいものに出会ってしまって処理できなかった。

 

そこからすぐに、同キャストの過去公演のDVDを買った。

過去公演をみたら、またもう一回見たくなった。

全然違う。もちろんDVDも十分楽しかった。でも、どうしてDVDを見て楽しい気持ちになれるのかって言ったら、この間観た公演が楽しかったことを観ると思い出すからだった。

次の週。いつもだったらバイトの日だったが、その週は予定があってバイトは休みにしていた。予定自体の終わり時間は早くて、場所も近かったから当日券をとりにいった。2回見ても楽しかった。

本当は少しだけ緊張していた。公演を見て以来、気が抜けたときに考えているのはそのことばかりだった。あまりにも楽しくて楽しくて仕方がなかったとしか覚えていなくて、当日券に並んでいるときに前に感じたキラキラは自分が美化した記憶なのではないかと思った。あるいは、2回目を観たら、知ってしまっている分だけ楽しい気持ちは薄れるんじゃあないかと不安になった。

でも、2回目も本当に楽しかった。席はもちろん先行で当てた1回目のほうがいい席で舞台との距離も近かったけれど、別に当日券だからといって舞台が見づらいということはなかった。

だから、次の日も当日券に並んだ。友達に声をかけてはみたものの、さすがに急なことだったので予定は空いておらず一人で行った。

その日は木曜日だった。友達は金曜日なら行けるといっていて、金曜日に行こうかなとも思ったが、金曜日は授業の関係で間に合わない可能性があった。もしそうなったとき、木曜日に行かなかったことを絶対に後悔すると思ったら、観劇の計画を立てて電車の時間を調べていた。

このときばかりは自分の住んでいる場所に感謝した。思い付きでふらりと劇場に行ける距離に住んでいてよかった。

3回目も楽しかった。とっても楽しかった。またもう1回みたかった。次の日の金曜日、一応授業が時間通りに終われば間に合う計算だったが、よく長引く授業だったので行けるかどうかは半々だった。観に行きたくて授業の途中から胸が痛かった。

授業が終わってすぐに飛び出して、何とか間に合った。4回目は今までの中で一番悪い席で少し見えづらいところも多かったが、それでもどうしようもなく楽しくて、その日は来ていた友達と一緒に帰りながらずっと舞台のことを喋っていた。

結局、期間中4回観に行った。最初は1回の予定だったのに、最後3日間は3日連続で通った。3日間とは言え、毎日行っていたせいで、もう見ることができない実感が湧かなかった。次の日も、同じ時間になったら同じ劇場にいる気がしていたし、そこに自分がいないことに気が付いて泣きたくなった。

 

3日間、そこそこ無理をした。

家に着くのは終電近かった。レポートを木曜日と金曜日に提出しなければならなかったので、終電近くに帰ってからレポートを仕上げた。睡眠時間は3時間程度しか確保できないで、少しふらつきながら学校に行った。そのせいでずっと頭が痛かったし、目は重かった。そのことで舞台に少しでも集中できていない時間があったことが、悔しかった。

でもあの3日間は恐ろしく楽しかった。夢のような時間だった。

給料日に入ってきたお金は、この3日間と、そのあと買い集めた過去のDVDに全部消えた。今まで買おうと思っていたものは全部後回しにして、ブロマイドを買った。

 

ちっぽけな人生だけれども、確実にあの公演をみたことによって人生が変わったと思った。

今は、あれだけ好きだったアニメを見るより過去のDVDを見るほうが楽しい。買ってあった漫画も積んであるだけで、しばらく手を付けていない。手を付けられない。

このまま自分がどうなるのかは今のところ全くわからない。

1度観たときにはこんな風になる予定ではなかったし、2度観たときにも自分がこんな風になるとは思ってもみなかった。

 

演者さんたちのことも、毎日ツイッターでマメにチェックするようになった。

ツイートしているのをみたら、ひたすらいいねを付けていっているのを、友人らからは気持ち悪いとすら言われるようになった。

でも、毎日それをしているときが楽しくて仕方がない。

今度、新しく舞台に出ると聞いたのでとりあえずチケットをとった。弱いオタクだから、1公演しか入れないけれど、でもまたきっとそれはとっても楽しいのだろうなと思って。今、目標にできる楽しみはそれだけだ。

それまでの間は、過去のDVDをまたみよう。